2009年1月30日金曜日

第7回「川崎 洋」に触れて

著者:川崎 洋
出版社:中央公論社
価格:1500円
初版:昭和58年11月10日
サイズ:ハードカバー

何年か前、店で古本市をした時に参加者の一人だったフォークシンガー
の友部正人さんがこの本をくださった。現代の詩人というシリーズで
編集は、大岡信さんと谷川俊太郎さん。装丁は、安野光雅さん。

一生涯・勉強不足の僕は、川崎洋という詩人を知らなかった。
そこには
平易な言葉で意味を無意味にしたり、言葉の連想が予想できない
僕の好きな詩のスタイルが記してあった。

人は意識的に思春期の頃から詩をしたためることがある。
それはどちらかというと、難読に凝る背伸びの詩だったり、
黒い暗い世界への倒錯だったり、うっぷんをひっそりノートに
叩きつける詩だったりする。もしくは、夢見るポエム。
客観性が薄い主観溢れる詩。
それが思春期の詩なのかもしれません。

それ以前の小学校低学年の頃は言葉との距離が
上手くとれているのか意味を解体したりすることを無意識に
出来ていることが多い。
言葉の意味をなまじっか知りはじめると・考えはじめると・疑い
はじめると、思考力・想像力がどうしても欠如する。
言葉のひとつひとつの意味に負ける。

しかし、それは必要な過程なのかもしれません。
言葉との距離感をもっとあいまいにさせるために。
一度、言葉に意識的にならざる得ない時期が必要かもしれません。
言葉に想像力を持たせるために。

川崎洋は生前、どうやら子どもの詩をまとめていたようだ。
詩は子どもの冗談から発生したものであるかのように、優れた詩の
世界観は子どもに帰還する。

短い詩を2つ。

言葉は
言葉に生まれて
  こなければよかった

言葉で思っている  
         
       川崎 洋

海 海と
思いつづけることが
ぼくにとっての



       川崎 洋

友部さんがくれたその詩集には、谷川俊太郎「生きる」と
茨木のり子「自分の感受性くらい」の詩2篇の切り抜きが
挟んであった。それはやはり僕の好きな詩であった。