2009年12月31日木曜日

第18回「日々の泡立ち 真説RCサクセション」に触れて

著者:渋谷陽一(聞き手)
出版社:ロッキング・オン
価格:1200円
初版:1991年2月
サイズ:ハードカバー

筑紫哲也さんが亡くなった時、その時はまだ闘病中だった忌野清志郎の事
を真っ先に思った。(清志郎はショックだろうな・・・・)と思わずにはいられな
かった。復活ツアーを行った際、おなじくガンと闘っていた筑紫さんを舞台に
登場させ、筑紫さんが前口上を述べるという演出がなされたらしい。人から
聞いた話だ。わが町・京都でも復活公演は開催された。僕はそのことは知っ
ていたが、復活した清志郎の元気ぶりを各メディアで見て安心しきって行か
なかった。その日も筑紫さんは登場したらしい。

以前、僕の身近にもガンと闘った人がいた。その人を病院に見舞う毎日の
中で風邪をひいた僕はネガティヴな気分で目が覚め、身体のダルさからくる
憂鬱はあらゆるヤル気をそいでいった。その朝は気分が滅入る一方だった。
その時、入院しているその人のことをなぜか思い出した。治る見込みのある
風邪をひいたぐらいでこんなにネガティヴな気分になるのに、ガンが再発し、
抗がん剤を打ち、身体の痛みをこらえ、毎朝目が覚めたら病院のベッドの天
井が現れるその人の心情は想像するに堪えなかった。

清志郎のガンが再発したという報が流れた。それから僕は清志郎の朝を
想像することが多くなった。毎朝パソコンを立ち上げてヤフーのトップニュース
を見るのに少し勇気がいった。ラジオから不自然なタイミングで清志郎の曲
が流れてくることを恐れた。しばらくしてその習慣をようやく忘れそうになった
頃、TVをつけたらそこに悲報が流れた。

復活後の清志郎のメディアでの言葉に僕は戸惑った。「愛」「世界平和」「夢
を忘れずに」。最初に彼の口からその発言を聞いた時、彼特有のギャグだ
と思った。歌詞をみてもわかる通り、人一倍言葉が持つイメージに敏感な人
だったと思うし、直接的な言葉は照れもあいまってむしろ茶化す立場の人だ
と思っていた。この「日々の泡立ち」はRCサクセション20年の歴史を忌野
清志郎・仲井戸麗市、小林和生が渋谷陽一のナビゲートの下、ポツポツと
答えたインタビューである。そこでの清志郎は、一番素っ気無い。受け答え
は、「うん」「そうそう」の連発で完全に他人事である。ここには正しく不真面
目なミュージシャンが記録されていて、真剣なのかどうなのか、真意をはぐ
らかされ続ける渋谷陽一が滑稽にうつるほどだ。

後年の何もいとわないメッセージは、心からの全快を何よりも忌野清志郎
自身が強く願った道程でついに出てきた言葉ではないかと想像する。

2009年11月29日日曜日

第17回「大きな大きな船」に触れて

著者:長谷川集平
出版社:ポプラ社
価格:1260円
初版:2009年8月
サイズ:26.5cm×21.5cm

学生時分、この人ともし同じクラスになっていたら多分友達になっていた
だろうなと長谷川集平さんの作品を昔読んだ時、一方的に思った。そし
てそのとき巻末の彼の顔つきを見て余計にそう思った。

長谷川さんの作品は基本的に少年目線のものが多い。それも劣等感を
持つ少年が多い。<家族>と<友人>という子供にとって全てである人
間関係の中で、何かを見てしまったり、感じ取ってしまったりする子供の
ねじれる様を描いた作品によく出会う。
この絵本に少年はもちろん登場します。しかし少年から青年を経て、現在
父親としてふるまっている大人も、少年と同じくらい大事なキャラクターとし
て登場します。
            
二人きりの生活をはじめることになった父と息子の話。
新しい生活を迎えて、気負いや考えすぎの優しさをみせる父親。それを敏
感に感じ取り、先回りした言葉を山なりで届ける息子。男同士の無骨な優
しさの応酬がそこにある。この時、父と息子はある意味クラスメートだ。

ある日、なんてことなく始まった二人の会話。
妻であった人と母であった人の思い出を二人は話し始める。それぞれの立
場とそれぞれの年輪が、父の忘れている記憶と息子の知らない記憶を交差
させ、記憶は符号していく。

そして息子は口笛で、あるメロディを吹く。

父親にとってそのメロディは、不安と緊張と思い出をいっぺんに再生させる
メロディだった。時間を巻き戻す再生。大人の男として、社会に出、恋をし、
色々なものを失い、成長させられてきた少年の成熟した涙がその日、落ちた。

思い出の蓄積が増えれば増えるほど、五感は錆びながら過去を連れてくる
に違いない。日常に当たり前のようにあった習慣や仕草が思い出に変わっ
ていたことに気づいた時、その環境の落差に人はやるせなく涙を落とす。
この短編映画のような絵本がずっと残って、今はまだ思い出が足りない少年
が社会に出、恋をし、色々なものを失い、ずっと未来のどこかの本屋でこの
本に出会うといいなと単純に思う。

2009年10月30日金曜日

第16回「うわさのベーコン」に触れて

著者:猫田道子
出版社:太田出版
価格:1554円
初版:2000年2月11日
サイズ:ハードカバー

その存在は数年前から知っていたが、めったに古書店でも
見かけることのなかった「うわさのベーコン」。年代的にも、
いわゆる古書業界の文脈にはのっかってこない奇書である。
いまは落ち着いているがアマゾンでは一時価格が高騰して
いたらしい。いつか出会うと思った先日、ついに手にした。

巻頭には以下の注意書きが添えられている。
「各収録作品の文中には明らかな誤字脱字が含まれていま
すが、本書編集にあたっては、それも含めて”著者の文体の
魅力”と判断いたしましたので、あえて訂正は加えておりませ
ん。ご了承ください。」

表題作「うわさのベーコン」は、ご丁寧な語り口の独白調で、
散文的な構成。漠然としながらも強烈なる結婚願望を持った
短大生のグジグジした不条理な思考と妄想。そして、悪態。

*注意*
この悪態は、サブカル文化系女子ノリとでもいおうか、要する
に言葉を吐くのではなく呑み込んでいる。そしてそれは現代の
若者が使う言葉ではなく、もっと嫌悪を孕んだ丁寧語に変換し
て記している。

少し抜粋>>>>>>>>(原文ママ)
たん任の先生に進路を聞かれて、結婚したいという。調子に乗
られた先生が、クラスの人に私が結婚したがっている事を言っ
てしまわれる。「あんまり言わないで下さい。」と、この先生を押
さえようとするのですが、聞いては下さらない。仕方がないから
言わせていました。

もひとつ抜粋>>>>>>>>>(原文ママ)
おまけに、「もし、お願い事があれば聞いてあげるよ。」とおっし
ゃいました。先生はその人の代りにお参りなさろうとされたので
す。しかし、私もその他の人も、頼みだしませんでした。夏休み
前には、憎たらしい程その先生と顔があいました。

こうして抜粋してしまうと、なかなか伝わらないかと思いますが、
僕は読み進める間中、言語感覚を微弱に揺さぶられていた。云
うならば、ブランコで誰かにずっと背中を押され続けているような。
その感覚をおぼえてしまうのは、複数の誤字・脱字もさることなが
ら、予測不可能な言葉の配列にあるのかもしれない。展開するト
ーンがずっと一定なのもそこに起因しているだろう。文章を読む
上で無意識に刷り込まれた慣用句が存在しない箇所が随所に出
てきて僕は不思議系女子と会話しているような気分になってくる。
そしてその気分に最後まで引きずられ、フワフワと高揚した感覚
が全ての誤字・脱字を許してしまう。それもありだな。これもまた
ありだな、と。唐突なフレーズが<詩的>にも受け取れるような
感覚を準備させられる。この感覚は、小学生の作文を読んだ時
の感覚に非常に似ている。作文がときに持つ残酷なほどの純真
さは、あらゆる誤解や間違いを読み手に肯定させてしまう力を持
つ。この作品は、小説と作文を分解して融合させたような稀有な
成功例であるが、<文壇>という土壌に登場するのにはまだまだ
多くの誤解を解く年月がかかりそうだ。

2009年10月2日金曜日

第15回「たばこ屋の娘」に触れて

著者:松本正彦
出版社:青林工藝舎
価格:1365円
初版:2009年9月20日
サイズ:ソフトカバー

今、たばこ屋に娘はいない。たばこ屋も少ない。30歳まで
僕もタバコを吸っていたが、たばこ屋で買った記憶がない。

この作品集は、主に昭和40年代に描かれた作品であり、
松本正彦さんはさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロと劇画創成期
を構成した<駒画>作家である。(駒画とは、松本さんの描く
叙情的漫画の呼称でご本人の考案らしい)

結婚適齢期の男女の物語が私小説のように描かれている。
踏み切り沿いのアパート。畳にゴロ寝。2槽式洗濯機。穴の
あいた押入れ。雨漏り。水しか出ない台所。安酒屋。夕暮れ。
そんな生活レベルを舞台にした窓辺に立ち尽くすような話が
ここには根付く。作者曰く「競輪場に行った人が帰りに買って
電車の中で読んで、家に帰る前に捨てるような雑誌」に連載
されていたからか、登場人物は、純朴でささやかな若者に対
して中年は皆、荒涼としているような感がある。そのギャップ
の縮図がどうしようもなくて泣けてくる。

表題作「たばこ屋の娘」は、ご多分にもれず純朴な青年が
たばこ屋の娘に惚れる話である。もちろん最期はせつない。
娘が男をその気にさせる、一方通行ではない、片道切符の
ような恋だ。罪な娘だ。たばこ屋の娘。たばこを街角で人から
人へ売るという行為は、年齢確認も厳しく、健康被害もおおい
に謳われる今となってはなんとも怪しい共犯関係を作り出すよ
うな行為みたいになってしまった。たばこ屋のあの個人的な
雰囲気の窓口。おまけにそれが若い娘などときたら闇売買に
も似た淫靡さがある。それがまだかろうじて日常だった時代。
                                
たばこ屋の話は他にも収録されていて「たばこ屋のあった横丁」
は、主人公がたばこ屋の娘に傘を借りる事になったのだが、郷
里から出てきた母親に傘の持ち主を恋人と勘違いされ、その娘
に1日彼女として振舞ってもらうという話。ラストは、人が何かを
失うというのは実に一瞬の事なのだということを教えてくれる。
  
それから印象的だったのは「遠いお祭り」「花の新宿」の2本。
せつない恋愛たちの話。人間が結びつきを求める姿はこんな
にいじらしいのかと思う。好かれたい。嫌われたくない。一人に
なりたくない。この人でいい。そんな保身と表裏一体の関係維持
に努める男女。惚れられている側はいつも自由奔放で、惚れて
いる側はいつも健気だ。

「コーヒーの味」という一篇も忘れがたい。この話は清涼剤のよう
な後味。<奔放と健気>の構図は基本にあるが、ひとつのキー
ワードによってその構図がポジティブなものに感じさせられる。
こんな繋がりに憧れる。
  
他にもコンドームを訪問販売する婚活女子「ハッピーちゃん」など
社会生活での男女の出会いの稀少さを描いている。そんな状況に
今よりずっと多かったであろうおせっかいを焼く周りの人たちがたく
さん登場する。実際の場面でそんなケースがあったら、面倒臭いと
スルーする人が多いのかもしれない。この漫画ではそんなおせっか
いを真正面から受け止めている。おせっかいとは、よかれと思って
行動する人と対峙するので面倒くさいものだ。しかし人情とは面倒
なことを真正面から受け止めることであろう。ここには、<世間体>
が上手く機能している時代が描かれているように思える。

2009年8月27日木曜日

第14回「ある私小説家の憂鬱」に触れて

著者:尾崎一雄
出版社:新潮社
価格:800円
初版:昭和45年10月10日
サイズ:ハードカバー

「私小説」と改めて謳う小説は最近少ない。内面を描き出す小説の殆どが
ある種、私小説といえてしまうこともあるのだと思うが、それを自ら名乗る
作家はもっと少ないような気がする。この本が発売された昭和40年代は
私小説という言い草がまだ通用する時代だったのだろう。カテゴライズの
新しい区分けは売り方の一材料としての副産物だと思われるが、この私
小説という区分けも、ジャズの細かいジャンル分けのようなものに近い気
がする。(ニュージャズとかアシッドジャズとか)

この本は尾崎一雄のエッセイ、いや<随筆>である。私小説作家の随筆
は、実名や経験談から構成される私小説の裏話やその日常を書き連ねて
いるので、それはいわば今のブログに近い。登場する出来事としては、本
当に何の変哲もないのんびりした昭和の日常である。その読涼感は、おじ
いさんと縁側で話したように心地よい。しかし幾つかの章では、いまとなって
はその時代の特殊性をいやがおうにも感じさせられる箇所がある。発売当
時の昭和30年~40年代に尾崎は60代。その日常には、いまとなっては
遥か遠い教科書上の出来事が随所に登場する。

「槍と薙刀」は、太平洋戦争時に家人を守る武器として家に保管していた槍
や銃が、戦後になりその所持に警察の許可が改めて必要となりその許可
申請をしにいくという話である。そしてその申請案内はその年をもって配布
終了するという時代。まさしく戦後が本格化していく出来事のひとつである。
尾崎の祖母は懐刀を持っていて、祖父とケンカになるたびに「わたくしも武士
の娘」と啖呵を切り、その刀を前帯に挟み込んだそうな。明治三十何年の尾
崎6歳前後の記憶。。その時代の3代前にはまだ武士が現実にいたという
のがリアルである。

「先生を殴ろうとした話」では、2・26事件が日常の記憶として登場する。
尾崎はそのとき、谷崎某氏という人物の訪問を受けた。「革命が起こった!」
と絶叫興奮しまくしたてる氏にそのことを口止めされ、ただただ戸惑う。
その日は他にも凶兆ともいうべき事件も新聞をにぎわせたが、口止めされて
いるその事件に比べればものの数ではない。そしてその氏からある頼まれ
事を受ける。まだ戒厳令の布かれた現場近くの出版社に原稿料を一緒に
取りに行ってほしいというものであった。2人で作戦を決行するのだが、後日
談としてその谷崎氏が尾崎はそのときブルっていたと言ったものだから胸倉
を掴んだという展開である。

もちろん現在にも通じる日常も登場するが、はっきりと見える線で歴史的
出来事とつながっている事が驚異だ。
僕らの書くブログは、何を残せるのだろうか?


2009年8月1日土曜日

第13回「古レールの駅 デザイン図鑑」に触れて


著者:岸本章
出版社:鹿島出版会
価格:2940円
初版:2009年6月23日
サイズ:182mm×182mm

これは究極にフェティッシュな写真集であろう。
駅の写真集であるが、外観や改札などは殆ど掲載されていない。
これは「駅のホームの屋根の裏」ばかりを収集した写真集である。
この風景は、電車に乗ったことがある人なら誰でも記憶の片隅
に貼り付いているであろう。階段を昇ってホームに出た時に見える
あの屋根風景。電車の時刻を見る時に目に入るあの屋根風景。
ベンチに座ると映る反対ホームの屋根風景 etc・・・。

記憶の奥にある風景というのは、日常の風景なのに普段忘れている
事柄なのでそれが何かのきっかけで蘇ったとき、そのときの自分の
心理状態や状況を一気に思い出すことが多い。駅は移動の出入口
なのでこの写真集を見ると、旅行の出発時の爽快な気分や、出勤
ラッシュの憂鬱な朝や、遊びつかれた帰りのホームなどを思い出す。
個人的には都会の屋根風景は、なぜか憂鬱な思い出をつれてくる。
逆に田舎の屋根風景は、哀しくもないのに心地よいせつなさがついて
くる。田舎駅の乗り換えの待ち時間は、安心をともなった非日常だから
かもしれない。

これらの屋根は<上家>と呼ぶそうである。そしてその素材は、古い
レールを再利用したもので構成されている。しかし昭和40年を境にその
製法は駅のバリアフリー化などにより減少の一途を辿っているとのこと。
なんとわがJR京都駅の東海道線の上家は、貴重な初期構造の造りなの
だそうだ。現存する最も古い上家はJR横須賀線の横須賀駅で、途中の
関東大震災などのトラブルもあり確定できない部分もあるが、明治22年
の刻印が残されているという。直線にのびる上家がある一方で、優雅な
カーブを描いてそびえたつ上家の様は、これこそ文明の証といえるだろう。

2009年7月4日土曜日

第12回「マイブック」に触れて

著者:田村隆一ほか
出版社:講談社
価格:980円
初版:1980年9月25日
サイズ:変型A5判

書評は、仮に紹介する本の内容をほとんど書かなくても、
その本を読んでみたい気持ちにさせればそれはもう
書評という任務を果たしているのではないだろうか?

この本はいわゆる書評本ではなく、著名作家人が影響
を受けた本を4冊選んでトーク形式に紹介したものである。
インタビュアーは女優の斎藤とも子で、当時、高校2年生。
そうそうたるメンツと読書経験について語っている。現在の
高校生タレントでこんなことができる人はまずいないだろう。
その予習ぶりと勤勉な姿勢に頭が下がる。NHK教育テレビ
の「若い広場」という番組内でのワンコーナーを書籍化した
ものである。

10代から20代前半に出会った印象深い本は思想の支柱
として残り、人生のバイブルとして記憶される。それが社会
に出て、一時、陳腐な思想に思えてしまうこともあるだろう。
しかし、ファーストインパクトで心に刻まれる出会いというのは
若くて知識や経験の浅い分、直感が最も発揮された選択では
ないだろうか。そういう出会いというのは、実は最終的に帰る
場所との出会いに値するのかもしれない。
そのことを示唆するようなことを中上健次もこの本の中で
語っている。彼の選んだ4冊の中に「星の王子さま」があった。
中上のイメージにはそぐわないこの本の選書理由はこうである。

「作家っていうのは自分と同年代の読者とか年上とか、あるいは
もっと若い大学生とか、読まれる範囲が決まっているわけでしょ。
一ぺん、純真無垢な読者、つまり子どもたちに向かってこっちが
純真無垢の、ほんとうの気持ちを伝えたいなあという、そういう
欲求があるんだよ。~中略~いくら中上が、難しいことをいったり、
偉そうにいってもね、本心というのはこういう・・・小説っていうのは
やっぱりこういうとこから出発するんだ、っていう感じをぼくはいい
たいんだな」

童話というのは、いちばん神話に近いし、人の想像力をいちばん
開放する部分のジャンルだと思う、とも語っている。他には、井上
ひさしが「ガリバー旅行記」、水上勉が「家なき児」、丸山健二が
「ロビンフッドの冒険」を影響を受けた本に挙げている。それぞれ
の幼少時の境遇の中で偶発的に出会ったこれらの本とのかけがえ
のない接触に感謝の言葉を残している。冒頭を飾る田村隆一は、
本との出会いは、職場やクラスで出会った気のあう友達みたいな
ものでその付き合い方も人間同士のつきあいとなんら変わりないと
説く。自分が成長するにつれ、本も成長し、最終的に人生を顧みた
時に、その本によって自分の過去の精神像というものを振り返る事
ができると。

彼らの言葉は血が通っており、充分に書評に値した。

2009年5月30日土曜日

第11回「DVU 2」に触れて

著者:DVU編集委員会
出版社:自費出版
価格:800円
初版:2009年2月
サイズ:A5判

今回は雑誌の中の心を揺さぶられたインタビュー記事から。
「DVU」という映画雑誌の2号に掲載された京都市中京区麩屋町にある
気骨レンタルビデオショップ「ふや町映画タウン」店主・大森さんのお話。

こちらのお店の新入荷作品は新作ではなく、大森さんが買い付けてきた
作品であり、それはDVDではなくかつて流通していたビデオであるため
世間的には旧作にあたる。しかし、その質量は新作中心主義の大手
レンタル店を凌駕する。映画好きは、世の中のビデオ屋がいかに揃って
いないかを再確認する事になるという。しかし大森さんは、みんなが古い
映画を借りないから、大手も新作に走らざるえない状況を説く。ふや町
映画タウンも趣味の品揃えではなく、一人でも多くの人に映画を見てもらう
為の品揃えを心がけているが、現実問題としてレンタル回転率が低いこと
もあり6年目の営業もなかなか苦心されているとのこと。

このような貴重なお店は発見した感動で安心してしまい、意外とその後放置
してしまうというお話には多いに納得できた。品揃えのよい店を見つけたの
でこれでいつでも借りに行けるという根拠なき安堵が僕にはわかる。客側の
視点としても店側の視点としても。

最も感銘を受けたのは、貪欲についての話。
自分の好きな映画しか観ない、という行為。自分の趣味を早くに決定して
しまうのはもったいないと言及されている。世の中、面白いと「思われ」ない
映画 がほとんどなのだと認識された上で、過去に自分が面白いと思った類
の映画を 反芻することが一番楽な行為であるが、それは興味の拡張を終
焉させる行為 であると。実はその行為がマッチポンプ式に消化不良映画を
増やしていく一因になっているではないか。

映画、文学、音楽、食べ物。。貪欲にはお金がいるように誤解されるが、
反芻 している回数を新しい興味に向ければ、時間は還ってこないが違う
人生が そこに現れることもあるであろう。僕自身、耳に痛い話でありました。
時代劇 も西部劇も観てみようか・・・な。

2009年4月28日火曜日

第10回「幼年 その他」に触れて

著者:福永武彦
出版社:講談社
価格:580円
初版:1969年6月12日
サイズ:函入りハードカバー

印象的な装丁の本である。昭和44年。
函の中身の表紙もご覧に入れたくて掲載しました。
ロマンティックとユーモアが同居している良い例。
まるで永遠の錯覚が続くかのような半エッセイ&
短編小説群が硬質な文体で収められている。
 
「幼年」の冒頭は、幼少期の就眠儀式から始まる。
就寝時、両方の掌を親指を外に出して汗ばむまで
固く握り締め、仰向けに寝た胸の上に置く。拳同士
は微妙な間隔を取り、左の拳は心音を聴いている。
両足は延ばしているが、右脚だけ曲げ、その足の
裏を左の膝こぞうにぴたりとつける。肝心なのは、
眠いのをそこでガマンすること。すぐに寝てしまって
は面白い夢を見られない。そのまんじりとした時間が
願望による空想やその1日の出来事を荒唐無稽に
夢想化させる。しかし実際は面白かった・美しかった・
甘かった・やさしかったというような印象のみしか記憶
していないことが多いのも事実で、再生不能の記憶
である「夢」は、前世の記憶に似ているとも言えないこと
もない。人は眠ることにより、一つの夜を眠り、一つの
朝を目覚めることの繰り返しにより、なにか最も大事な、
最も本質的な部分を次第に忘れていくのではないかと
福永武彦はそこで思っている。昭和39年の夢想。

幼年を思うことは、記憶について考えることでもある。
当然この本にはいくつもの記憶考が展開されている。
そして記憶という曖昧で不思議な世界をいいあてるか
のような各章のタイトルが素晴らしかったので列記します。

「就眠儀式」
「初めに闇」
「薄明の世界」
「墓地の眺め」
「ヴァニラの匂」
「夏」
「屋根裏部屋」
「暗黒星雲」
「夜行列車」

記憶の最深には、いつも沈黙の自分があると思っている。
平成21年の夢想。

2009年3月31日火曜日

第9回「ヤンキー文化論序説」に触れて

著者:五十嵐太郎(編)
出版社:河出書房新社
価格:1680円
初版:2009年3月
サイズ:ソフトカバー


10代のクラスの立ち位置として、
いつのまにか勉強の出来る子はイケてないことになり、
かといってダイナミズム溢れるヤンキー然とした少年も
少なくなった今、優等生ともヤンキーとも違う子。ヤンキー
がクラスにいたら存在を侵食されないように表向きは顔
をつなげておいて、勉強にマジメに取り組む子がいたら
<おとなしいグループ>とし、それとは自分は差別化する
ようなタイプの学生が結構多いんじゃないだろうか。それが
普通の学生の処世術としてある気がする。かくゆう私も
そんな風だったような気がする。


当時まだかろうじてヤンキーファッションは生き残っていた。
中学はブレザーだったのだが、それを無理矢理短ラン
にして、内側に刺繍を入れるというかなり強引な同級生
たちがいた。いわゆるリーゼントにしている者もいたが、
髪を染めている者の方が多かった。彼らは中学2年の
夏休み明けあたりからそのスタイルに移行していった。
私は当時流行っていたビーバップハイスクールの真似
にしか見えなかったのでスルーしていた。実際、やりたい
格好ではなかったが、いざやれるのか? と問われれば
そこまで思い切る勇気もなかったんだと思われる。学校
はそれなりに荒れていた。授業中はいつも誰かが廊下を
騒ぎながら歩いていたし、先生が校舎裏でヤンキー集団
に囲まれてしまったこともあったし、校舎の窓ガラスが全部
割られ職員室の中が消火器で真っ白にされたこともあった。
さすがにその時、校長はキレ、朝礼で凄みあふれる暴言を
生徒たちに吐いたが。


当時はなんとなく彼らと学校で交流はあったが、それは
今から思えば前述の処世術に過ぎなかったんだと思う。
(奔放度という意味で)多少の羨望はあったが、実際は
彼らの存在がうっとおしかった記憶がある。そんな私だった
のだが、いつもヤンキー文化に惹かれている自分がいる
のに気づく。いや、ヤンキー文化というよりヤンキーを経た
人のかつてのヤンキー度合にとても関心を持っている。
なぜだろうと思う。元ヤンの人たちは、過去を実は勲章に
している。その勲章の等級を見極めたいのだろうか?
単純に、<修羅>にどこかで憧れているのかもしれないな。
なぜか元ヤンの現在には全く興味が湧かないのであるから。

2009年3月5日木曜日

第8回「20年目の検証 猪木ーアリ戦の真実」に触れて

著者:週刊ゴング編集部&小林和朋
出版社:日本スポーツ出版社
価格:1000円
初版:1996年7月10日
サイズ:ソフトカバー

先日、テレビ朝日の50周年特番で「アントニオ・猪木対モハメド・アリ」の
回顧録が放映されていた。当時私は4歳で、もちろん後追い人間である。
10年ほど前にこの本を買ったのだが、久しぶりに再読してみたくなった。
小学生の時の私は「尊敬する人物は?」と聞かれると、迷う事無く「アント
ニオ・猪木」と応えていた。当時は空前の第3次プロレスブームで将来は
プロレスラーになろうと心に決めていた。猪木はヒーローであり、八百長論
に真っ向から反論する信者であった。そして後に色々なカラクリを知るに
つれ、映画を観るような距離感で接するようになっていった。しかし、猪木
への尊敬は今も変わっていない。      それはなぜか?

体を張って、世間と対峙する姿を見せてくれたから

かもしれない。モハメド・アリは、時の世界ヘビー級王者。プロレスとは違い、
ボクシングは社会的にもスポーツとして認知されている競技であり、現在で
いえば誰であろう・・・、一昔前ならマイク・タイソンがいたのだが、今、お茶
の間 レベルまで名前の浸透しているマット界のスターがいないことに図らず
も気づく。 とにかく世界のトップスターに挑戦状を公式に送りつけたのが
日本のレスラー猪木。 もちろん最初は相手にされないのだが、猪木陣営
はしつこく食い下がる。アリ側も 高額なファイトマネーをふっかけて牽制する
が、猪木は実現の為、約18億円の借金を背負い交渉を続けた。この本には
試合実現に至るそれぞれの陣営の 思惑が細かに書き綴られている。この
試合の当事者たち~レフェリー、セコンド、 アナウンサー、興行主、師匠筋
レスラーらの証言もふまえながら。もはや映画のようなスケールとストーリー
がこの本に刻まれている。調印式、公開スパーリング、記者会見での度重
なる心理戦。先日、この時の猪木の顔をテレビで見たのだが、緊張とやる気
が同居した卒業式のようなハレの顔であった。結果的に勝負はドロー となり
当時は「世紀の大凡戦」「八百長」と叩かれた。猪木は引き分けに終わった
控え室で号泣したという。一世一代の真剣勝負だったのだ。
しかし、時を経てこの試合の内情が明るみになるにつれ、評価は裏返って
いった。アリ側の一方的な優勢ルール要求、結果的にアリの選手生命を奪
った猪木の攻撃によるダメージなどひたむきにこの夜にかけた猪木の評価
につながったのだ。 猪木は18億円を背負ったが、名声と経験を手にした。
無謀なものに無謀な方法で 無謀な公約のもと無謀な戦いをし、無責任な
世論と無言で戦った人間。世間と対峙 することがどんなにハードなものか、
36歳の私は少しだけ想像できるようになった。

2009年1月30日金曜日

第7回「川崎 洋」に触れて

著者:川崎 洋
出版社:中央公論社
価格:1500円
初版:昭和58年11月10日
サイズ:ハードカバー

何年か前、店で古本市をした時に参加者の一人だったフォークシンガー
の友部正人さんがこの本をくださった。現代の詩人というシリーズで
編集は、大岡信さんと谷川俊太郎さん。装丁は、安野光雅さん。

一生涯・勉強不足の僕は、川崎洋という詩人を知らなかった。
そこには
平易な言葉で意味を無意味にしたり、言葉の連想が予想できない
僕の好きな詩のスタイルが記してあった。

人は意識的に思春期の頃から詩をしたためることがある。
それはどちらかというと、難読に凝る背伸びの詩だったり、
黒い暗い世界への倒錯だったり、うっぷんをひっそりノートに
叩きつける詩だったりする。もしくは、夢見るポエム。
客観性が薄い主観溢れる詩。
それが思春期の詩なのかもしれません。

それ以前の小学校低学年の頃は言葉との距離が
上手くとれているのか意味を解体したりすることを無意識に
出来ていることが多い。
言葉の意味をなまじっか知りはじめると・考えはじめると・疑い
はじめると、思考力・想像力がどうしても欠如する。
言葉のひとつひとつの意味に負ける。

しかし、それは必要な過程なのかもしれません。
言葉との距離感をもっとあいまいにさせるために。
一度、言葉に意識的にならざる得ない時期が必要かもしれません。
言葉に想像力を持たせるために。

川崎洋は生前、どうやら子どもの詩をまとめていたようだ。
詩は子どもの冗談から発生したものであるかのように、優れた詩の
世界観は子どもに帰還する。

短い詩を2つ。

言葉は
言葉に生まれて
  こなければよかった

言葉で思っている  
         
       川崎 洋

海 海と
思いつづけることが
ぼくにとっての



       川崎 洋

友部さんがくれたその詩集には、谷川俊太郎「生きる」と
茨木のり子「自分の感受性くらい」の詩2篇の切り抜きが
挟んであった。それはやはり僕の好きな詩であった。